昨日3月28日に東北のボランティアから帰ってきました。
被災地では写真撮影禁止(自粛)なので文章で概要を記します。
活動場所:南相馬市の原町地区と鹿島地区
(南相馬市は2006年に北の鹿島町、中の原町市、南の小高町が合併して出来ました)
東北震災とそれに伴う津波による原発の事故で南の小高地区は20kn圏で避難地域、中の原町地区は屋内退避、鹿島地区は普通と3つに分断されました。
日程 :2012年3月21~28日
受け入れ先:南相馬社会福祉協議会が業務を委託しているボランティアセンター
メンバー:単独個人参加
食事関係:愛車”子ブタちゃん”の中で自炊
朝はコーヒーと果物
昼は朝炊いたご飯で作ったオニギリ
夜はご飯を炊いてレトルトカレーなど
宿泊 :センター内の畳の部屋
風呂 :市が発行した無料入浴権で銭湯に行く。
記録 :
準備 まず現地の受け入れ先に連絡して受け入れ証明書をもらい、高速道路の「災害派遣車両」の手続きが必要だ。受け入れ証明書を最寄の市役所(役場)に持参して災害派遣車両証明を発行してもらい、高速の料金所(一般ゲート)で提示すると通行料が無料になる。(この制度はどうやら3/31で終わる)
(エピソード)南相馬の社会福祉協会が委託しているボランティアセンターに電話する。私「もしもし、ボランティアしたいのですが」センター「いいですよ、お名前と年齢を」私「○○で67歳です」センター「エッ!67歳!ウ~ン・・・・・」私「67歳はダメですか?」センター「いや、そんなことはないけど・・・・・以前のお仕事は何ですか?」私「事務職です」センター「事務ですか・・ウ~ン!・・・・」私「事務はダメですか・」センター「そんなことは無いけど・・・・じゃ!一応来ますか?」私(だから行くといっているのに・・・)
往路 希望に燃えて高速を走り、出口で災害派遣車両証明を提示すると「通行券は?」私「ウッ?」係りの人「入るときにもETCではなく一般ゲートを通って通行券を持ってきてください。今回は何とかします」などがあり、何とか無事にセンターに到着。
申し込み時に応対してくれたセンター長にあって「よろしくお願いします」と顔を上げると(なんだ!こっちと大してかわらない年恰好じゃないか・・ブツブツ・・と心の中でツブヤク)
作業1日目 作業開始前に海の方を向いて黙祷してから津波がかぶった水田の瓦礫除去を11人でやる。表面にはあまりないがちょっと掘るとざくざくと出てくる。
作業2日目 6人で津波で被災した家の畑の瓦礫撤去。1偕は壁が波に持ちさらわれ柱のみ。まず、玄関に飾られた小さなお子さん2人とおじいさん、おばあさんの写真に低頭し合掌。涙が滲む。海に向かって黙祷後作業開始。波で養分が無くなった畑の土はコンクリトのように固まっていた。これを耕して生きることの過酷さを思った。
作業3日目 相馬野馬追いの会場で催されるイベントの駐車場整理係を担当。会場に着いたが強風と寒さ、雪が舞いだしてお客様の出足悪く、駐車場整理は不要となった。午後から1日目の農地の瓦礫撤去
作業4日目 津波を被って土手が壊れたため池の中の瓦礫撤去。膝までもぐるぬかるみの中での作業であった。
作業5日目 昨日に続いてため池の瓦礫撤去。北風は寒いが昼休みに土手の陽だまりでいろいろな地方から集まった、いろいろな年代の人たちとの語らいは楽しく心が和む。
作業6日目 小高小学校の引越し手伝い。プレハブ校舎が鹿島中学のグラウンドに出来上がったのでこれまで間借りしていた鹿島小学校からの引越し。引越しはこれで4回目とか。先生方や父兄の人たちと一緒になって、いろいろ話しながらの作業は楽しく仕事もはかどった。
帰路 一週間いると慣れてきて、仲間も沢山できて、別れて帰るのは後ろ髪を引かれる思いだった。
後書き 辛い作業もあったけど、知らない人たちが一つの目標に向かって協力することは自分にとってもとても有意義だったと思います。
南相馬の小高地区は4月15日に避難解除となります。ボランティアセンターも小高地区に引越します。
住民の人たちが我が家に戻れば、またお手伝いさせていただく仕事も出てきます。
発災から1年、多くの被災地ではボランティアが出来る仕事は翳られてきていますが、20km圏、計画的避難地域の復旧復興はこれから始まりますので、多くの支援が必要です。どうか手助けをお願いしたいと思います。
「瓦礫1個を拾うだけで清清しく豊かな気持ちになります」